駒澤零と記憶の記録

すきな音楽を紹介したり、日々の記録

Prophecy

詩的な表現ばかり使いたくなるのは私の心が詩であふれているからだと思う。

 

先日の仕事で、それはそれは批判を食らいそうな原稿を寄せた。

でも中途半端にジャーナリズムを学んできてしまった私としては、この哲学的で少し社会的な音楽に添える言葉はまず間違いなくこんなテーマだろう、と思わざるを得なかった。だからこれは私の責任で、私が世に送り出すべき言葉だ。そう思った。

私の原稿は私という個人の独自性を重んじて書くべきだと思っている。だからこそ個人的な事実にも触れるし、体験と思想を織り交ぜて書く。嫌がる人もいるだろう。でもそういう原稿が欲しいならもっとその道のプロフェッショナルみたいな大先生に頼めばいいと思う。知識も経験も未熟な私にできるのは、私という現在(いま)を切り取ることだけだ。

死について扱ったのは多分親戚のお通夜の日に原稿を書いたことが大きいと思う。それと先日見た映画『禅と骨』。突然スクリーンに映し出されたヘンリの死は衝撃だった。それを描く監督の選択に少し驚いた。

お焼香のあとにちらと覗いた大叔父は安らかに眠っているように見えた。親類といえど、私は殆ど彼のことを知らない。まるで蝋人形のようだ、と不謹慎にも思った。肌の表面が妙になめらかで、魂が抜けたようだ。

祖母たちは皆怖がってお顔を見ようとしなかった。そんなものなんだろうか。妙に整然とした葬儀場の空気は、清潔すぎて死の匂いを感じさせない。守られてしまっていると思った。それがいいことか悪いことかはわからないけれど。

 

別に炎上しなくたって、人は結構他人の発言を読んでいる。発信するものは、それをしかと肝に銘じて生きねばならない。そこには覚悟が付きまとうんだ。

北千住からの帰り道、そんなことをずっと考えていた。