駒澤零と記憶の記録

すきな音楽を紹介したり、日々の記録

青春の始末はつきましたか

私は今年で22歳になった。

初めてCDを買ったのは12歳の秋だったと思う。ジャニーズのCDだった。程なくボーカロイドに出会って、同人即売会に通い詰め、色々な音楽を聴くようになって。音楽に愛されていたかは微妙だけど、でも私はずっと音楽が好きだった。バンドは今年になって始めた。まだ動き出したばかり。9歳の時に初めて曲を作ったけど、楽器も弾けないしリズム感もないので鼻歌を記録するしかできなかった。今は細々とデモを作りためるまでにはなったが、知識が足りてないのは自分でもわかる。やめないけど。

 

ずっと、褒められること以外をやるのは馬鹿だと思っていた。

神様に愛されたことだけを達成して、望む人間にならなくちゃ。早く真人間にならないと、家族に迷惑ばかりかけてしまう。そう思っていた。あの学校に受かれば皆笑顔になるし、絵を描けばファンの人が喜んでくれる。

 

でも20の残暑、愛される方法がわからなくなった。

皆の期待に応えようと奮闘してるのに、何もうまくいかなくなった。毎日理由もなく涙が出た。頑張らなくてもそつなくこなしてた筈のものが最下位になった。焦って努力しても何も変わらない。人間関係で失敗するのは慣れてるけど、成果物で結果が出ないのは苦しい。特に得意なフィールドで。

家族ですら信用できなくなって、毎日死ぬことを考えた。20を迎えた早熟の天才が、大学の最寄り路線に飛び込んで自殺した噂を思い出した。屋根に上って夜風に当たったりもした。

 

『フジキュー!!!』を読んだのはそんな時だった。よく行く古本屋の片隅にまとめ売りされたのをたまたま見つけた。安かったし、一度は読んでみたかった、とかそんな理由だった。中学の頃から感傷ベクトルのことは知っていて、特別に嵌りはしないものの聴いていた。彼らは当時大好きだったミュージシャンと仲が良かったり、私が以前寄稿させていただいたコンピCDシリーズに参加していたのだ。

 

「あれもしたいな これもしたいな 神様勇気をくださいな」

「本当の自分になれるかな?」

 

それは魔法のような言葉だった。心の奥に眠っていた本音を言葉にしたらこうなるのかと錯覚するくらいには。劇中のキャラクターに自身がどこか重なり、漫画が音楽に重なることで幾度も反芻される。「ドレミとソラミミ」というその曲を、家の庭でうずくまって何度も聴いた。

それから、なぜか泣く頻度が減った。辛いことがあるたびに思い出し、誰かのために生きるのはもうやめた。わがままでも、不格好でも、自分が本当に求めてるものをやらないといけない。人形にしてほしかったけど、人形だっていつかは棄てられる。私は私を生きなければならない。

 

「青春の始末」のライブチケットを取ったのは、そんな個人的事情と、気まぐれと、ブッキングが良かったから。かな。当時私は対人恐怖症ぎみで、ライブも精々年に1、2回しか行かなかった(レコ屋は週5で行ってたけど)。ある意味奇跡だと思う。

 

あそこから私の"余生"はスタートして、沢山の出会いがあって、本当に素晴らしい経験も沢山させてもらって。たった2年間だったけど、生きることが楽しいと思えたのは、あの時囁一さんの漫画を読んで、CDを買い漁って、ライブに行ったからだと思う。

だって、怖かったもん。小さいライブハウス。ベクトルなら大丈夫、絶対知ってる人がいるから、と思って勇気を振り絞ったのを凄く覚えている。

 

 

昨日会場で泣き崩れた友人や、あまりにも爽やかな演者の方々を見てたら、「終わりか、そっかあ」と笑うことしかできなかったけど。

今日になって色々なことが重なって、不意に大泣きして。ああ、悲しかったんだな、とか思った。

 

私がベクトルをちゃんと観れたのは3回きりで、それ以外はただのリスナーで。多くの時間はわたしと音楽だけの世界だった。そこにバンドはきっと関係ない。本当はもっと悲しみたかったよ、とか思ったのも事実だ。でもこれで終わりじゃないし、自分が逆の立場なら痛いほどわかるし。本当の自分を見つけよう、と背中を押してくれたものだから、変わることを嘆くのは違うと思うの。解散じゃないし。

ただ、なんとなく、息がつまりそう、それだけだ。

与えられた命なら、これからも生きて、一杯誰かに返せるように頑張ろうと思う。それが大好きな人々や、愛してやまぬ音楽に対してなら、どれだけ幸せなことだろうか。

私は明日もきっと普通に起きて、大学の課題をやって、仕事のメールを返し、ギターの練習でもするだろう。やりたいことがあればやるだろう。誘われればすぐに出かけるだろう。そんな日常を送りながらふと思い出すのだ。20になって死にたかった時を。視線に怯えて音楽で耳を塞いでいた頃を。そうして部屋のラジカセで「神様のコンパス」をかけたりするのだ。ただ、それだけのことである。